日本の技術者に一石を投じた中村修二

技術者の知名度は低い

技術大国ニッポンと言われる中においても、発明や開発にたずさわる技術者の地位はかなり低いものであることが一般的に知られるようになったのはつい最近です。
日本には、他の国にはないような高い技術や研究施設がありながら、実際のところそこで行われる研究内容が世の中で高く評価されるというケースはほとんどありません。
まして、発明をした本人のことが有名になるということは、よほど大きな賞でも受賞をしない限りないことです。
ノーベル賞こそのがしてしまいましたが、その一石を投じるきっかけとなったのが、青色発光ダイオードとその発明者である中村修二氏でした。

日本の特許法の問題

中村修二氏は、現在ではカリフォルニア大学サンタバーバラ校で教授として勤務をしていますが、かつては日亜化学工業に勤務をする技術研究院でした。
青色発光ダイオードを中村修二氏が発明したのは日亜化学工業に在籍中のことで、その発明内容は20世紀中には不可能とまで言われていた非常に優れたものだったのです。
しかしそれにも関わらず研究内容を実用化した日亜化学工業は、研究の成果は当時帰属をしていた会社側に特許があるものとの理由から、全く少なすぎる報酬のみを中村修二氏に与えるにとどまりました。
これに異議を唱え、訴訟を起こしたことにより、発明対価として200億円もの支払いを命じる判決が東京地裁からくだされたのです。

事件の判決のみを読むと、日亜化学工業ばかりに非があるようにも感じてしまいますが、これは日本の法的な整備にも問題があったことです。
特許とは、発明をした本人に帰属するものと特許法に記載はありますが、ただしそれが職務中に行われた場合は権利は会社のものとなり、発明をした本人に支払われるものではないと定められていたのです。

ですが、中村氏の場合は当時定説とされてきた発光ダイオードについて疑問を持っており、不可能と思われることへのチャレンジをしていました。
中村修二氏は当時研究者としてはほとんど無名で、定説と真っ向から対立する研究を行うような権限などを持っていませんでした。
当然会社から十分な研究資金がもらえたわけではなく、ほとんど肘で試料製造の設備を整え、その上で社長に直訴をして研究費用を受けたという事情がありました。
判決は出たものの会社との溝は埋まらず、1999年には日亜化学工業を退職し、自身の研究をさらに進める環境がととのっているカリフォルニア大学へ移籍することになりました。